自己表現するために、自分のことを理解してあげる必要があると、なんとなく思っていた。
自己表現しようとしてもできないとき、自己理解が足りないからだ、とも思っていたかもしれません。
自分が何を考えているのか?
どんな特性があるのか?
何が得意なのか?
何が好きで嫌いなのか?
「私」という存在について、全てを知ろうとすると、すごく大変だ。
でも、ずっと一緒に生きていく存在である「私」。
「何かを伝えてみたい」と思って、ペンを持ったとしても、何も生み出せないこともある。
そんなとき、自己理解が足りないからだ・・・と思ってしまっていたけれど、違う。
生まれた時から私たちは、「自己表現」することができる存在だった。
赤ちゃんの時には、泣く・笑う・怒るなど、感情を言葉にできない代わりに、態度という自己表現で、感情を表している。
誰かに自己表現のやり方を教えてもらったわけではなく、すでに備わっていた力。
公園で作った砂のお城も、自己表現。
壁に描いて怒られた落書きも、自己表現。
発信したいな、本を書いてみたいな、
と思って、自己表現を試みたときに、何も書けない自分に悲しくなる。
私は何を伝えたいんだっけ?
何を思っているんだっけ?
あまりにも、自分を知らなさすぎると感じる。
でもでも、自分を理解してから表現するのももちろんイイんだけれど、自分への理解は後回しでも良いんだろうな〜って思うようになって、すごく楽になりました。
自分が何を思っているのか?何がしたいのか?なんて、どうせ後でわかるから、見つけようとしなくてもいい。
でも、何もない自分でいいから、表現してみる。
何か、書いてみる。
何か、発してみる。
自己表現の繰り返しによって、自己理解も深まっていくもの。
自己表現という遊びを楽しんでいただけで、ご褒美をもらえたような喜びがセットでついてくる。
表現することって本当に素晴らしい。
現代では、発信することが誰でもできる。
発信という自己表現手段を誰もが持っている。
web上に表現するのは、やっぱり誰もみないノートに書くのとは違う。
発信するのって、自分を知る一番のツールかもしれない。
自己理解が先、だと思っていたけれど、自己理解というのは、一生続くもの。終わりがない。
だって、私たちは成長し続ける。変化し続けるから。
変化の途中を楽しむ。
変化の途中で「発してみる」。
変化の途中で発した表現によって、また自分を知ることができる。
なんて、自己愛に満ちた流れなのでしょうか。
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今日も読んでくれてありがとう_♡
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